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四国八十八箇所巡り、いわゆるお遍路を計画しよう!

困難に立ち向かうことで、

人生が彩られる。

お遍路と弘法大師(空海)の関係

弘法大師の生い立ち

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お遍路と弘法大師の関係を説明する前に、
弘法大師について少し説明しないといけません。


弘法大師は2回名前が変わっています。

小さいときの名前→佐伯真魚(さえきのまお)
悟りを開いた後→空海
醍醐天皇から贈られた諡号→弘法大師。

諡号(しごう)は主に位の高い人の死後に奉る、
生前の事績への評価に基づく名のこと。

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佐伯眞魚は西暦774年頃に今の香川県善通寺市で生まれました。
だから、75番寺の善通寺の大師堂だけ異様に大きいのか。

自分が撮ってきた実際の善通寺の大師堂の写真。


話を戻して、
14歳で平城京に入り、15歳で色々勉強しました。
18歳で大学に入り、また色々勉強しました。

当時の大学は儒教中心で、
苦しみ悩む人々を救いたいという思いとは異なるものでした。
そこでちょうど仏教に出会ったのが大きな転身となりました。

佐伯真魚は大学の勉強をやめて、
西暦793年(19歳ごろ)に山林修行を始めました。
平城京の近くとかではなく、
山林修行は彼の故郷であった四国で行われました。


その四国で佐伯真魚が修行した場所を
同じように回ることをお遍路と言います。


室戸岬にある現存する御厨人窟(みくろど)という洞窟の中で修行をしていたところ、
口の中に明星(金星)が飛び込んできて、その時に彼は悟りを開きました。
悟りを開いた時に洞窟の中から見える景色が
空と海だけだったので、「空海」という法名にしました。



その後、空海は遣唐使として唐に渡り、
真言密教を学び、日本で確立させました。


西暦823年(弘仁14年)正月、朝廷より弘法大師に京都の東寺を賜りました。
それ以後、真言宗の根本道場として、社会活動の拠点とした。


835年4月22日に亡くなってから86年後の921年に
後醍醐天皇から弘法大師という名前を頂きました。

おしまい


よって、
弘法大師が若い時に修行した同じところを廻るのがお遍路
という関係になっています。


弘法大師は庶民に災難が降りかからないように四国の至る所に霊場を建て、
弘法大師が仏様になった後もその弟子達が建てた霊場が八十八箇所あり、
それがお遍路の道として確立されています。


高野山の人々や真言宗の僧侶の多くは、
弘法大師が亡くなっているとは思っていません。
高野山、奥の院の霊廟において
現在も弘法大師様が修行を続けていると信じられています。

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